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ラグビーとおれ

  • 執筆者の写真: Akihiko Morita
    Akihiko Morita
  • 2016年10月20日
  • 読了時間: 3分

7歳年上の兄が中学時代ラグビー部で。

おれ当然野球少年だったけど、こちらにも感化され、おれ含む四人兄姉すべて虜に。

時同じくして、近所にあった大阪工大高校が全国大会で優勝したり。

そして高校時代は、のちにテレビドラマ「スクールウオーズ」の原案になる、京都・伏見工業の勇姿に感服。

なかでも彼、平尾誠二選手の活躍。

ラグビーは、当時サッカーとは違いプロ団体がなく、アマチュアスポーツであることが前提でした。

だからいくら活躍しようが、報道されようが、ドラマ化されようが、例えばサッカー選手がモデル並みに着飾ったり、

CMにバンバン出演したりするようなことはなく。

今思っても、これほどのイケメン。それが「ONE FOR ALL, ALL FOR ONE」の精神を貫き、

決して「俺様」に君臨すること無く、ひたすらにラグビーを追求した姿。

それは、彼が京都・同志社大学に進学して、当時関東の大学同士による決戦が当たり前だった時代、

念願の大学NO.1を決める試合を制した時に発した言葉に表れていると思います。

おれの記憶ですから、間違っていたらすみません。

「僕たちは、早稲田や明治に勝つことが目的で練習してきたわけではない。そのひとつ上、

(当時常勝だった社会人ラグビー王者の)新日鉄釜石に勝つためにやってきた」

普通、言える?こんなこと。

同志社が関東覇者を成敗するだけでも痛快だったのに、そんなことはあくまでも過程であるという。

究極のラグビーを追求した姿。

惚れました。熱中しました。

僕の記憶では、大学日本一を制し、社会人・釜石に2度チャレンジし、2度とも敗退。

しかし2度目はあと一歩まで肉薄。

平尾は、伏見工業以来の大八木・林選手らと神戸製鋼に進み、

旧態然としたラグビー界に革命を起こします。

監督を置かず、選手たちで練習を考え、プレーを作る。

神戸製鋼は7連覇を達成します。

今は無き三洋電機戦での大逆転勝利は、20代の前半、大阪のプロダクションで編集の手を止めて

テレビ中継にかぶりついた記憶。

西天満のオフィスで歓喜したあの瞬間が、今なお鮮明に残っています。

上京後、一度だけ国立競技場で日本選手権を観戦。

平尾誠二はその後、日本代表としてワールドカップに出場し、のちに代表監督も。

しかし世界で見るジャパンラグビーのレベルはボロカスでした。

あの平尾が、平尾たちと共に培ってきた日本のラグビーが、世界では最低レベルだったことが、

判明したのです。

ショックでした。

そこにJリーグが現れ、ラグビーは衰退していったのです。

先のラグビーW杯で、日本が南アフリカに勝ったことは、もちろん監督のエディーさんやスタッフたちと、

そこに死にもの狂いで突き進んだ選手たちによるものです。

しかし、今あえて思います。

日本のラグビーのレベルを、世界基準のゼロレベルに、創意工夫で持ち上げてきたのは、

平尾誠二、この男です。

この男がいたからこそ、日本のラグビーは、今、輝いているのです。

異論があれば是非。

もうほんと悲しくて。ひとり、酔っぱらってます。

平尾誠二、享年53。

合掌。


 
 
 

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