デビュー作の思い出
- Akihiko Morita
- 2016年8月26日
- 読了時間: 3分
東京の海の玄関、築地市場(中央区)が、あと二ヶ月でお台場に移転するとかで。
都知事が代わった矢先、果たして行く先不透明ではありますが。
数えるほどしか行ったことが無く。行きたいな〜吉野家一号店とか寿司とか。
でも、今行けばずばり外国人観光客に混じってなんか嫌やな〜ミーハーみたくと、
編集終えて六本木からママチャリぶらぶら帰り道、ふと思い出したこと、書きます。
23歳のときですから1988年のこと。
大阪のテレビ番組制作会社でADだったぼく。担当する深夜番組は深夜とはいえ時はバブル。
毎日放送の「浪花突撃旅部隊」という、吉本芸人と選抜された素人が、全国各地のイベントにガチで殴り込んで、賞金をかっさらおうという、
今にすればぬるいでしょうが、当時は画期的な番組に携わっておりました。
ワンクールを2チームで廻し、そのふた廻り目だったか?
長野県美ヶ原で開催された「ヤッホー大声大会(名称たぶん)」に参加して番組収録を済ませたのですが、
現場は悪天候で、地元の体育館での実施となり、画的につまらないと、放送を前に緊急会議。
しかし遅々として進まぬテレビ特有(分かる人には分かる)のだらだらとした会議に嫌気がさしたぼくは、
「大声出してはる人を取材して、10分くらいのコーナーを差し込んでみたらどうですか?」
勇気だったのか?無謀だったのか?若気の至り?そうかも、百戦錬磨のスタッフを前に発言しました。
(ちなみに番組構成作家は、かわら長介さんと倉本美津留さん)
当時の局D、三村景一さんに「おもろいなあ、空海やれ」
ロケ台本も現場演出も交渉ごとも、ディレクターとして経験ないおれが、
大学応援団(高校時代の友人のツテ)・居酒屋(同・アルバイトのツテ)ほかにもいくつかあったような、なかったような?
思い出せないのですが、はっきり憶えていることは、
ロケ当日の早朝3時、向かった先が、大阪卸売市場のセリ市でした。
父親くらい歳の離れたベテランカメラマンに指示して、というより、逆に手なずけられて。
で撮ったら、編集するのもディレクターの勤め。
たぶん6時間以上撮って、それを10分以内にしなければならないのに、
何度やってもあと5分が切り落とせず。
最後は三村さんに切ってもらい、MBS松井アナウンサーにナレーションを入れてもらい何とか完成。
が、今みたく、褒めて伸ばせなどという環境じゃなかったので、ぼくはやりきれなかった屈辱感に苛まれました。
それが、おれのテレビディレクターとしての原点です。
映画監督を志し、しかし勇気無く飛び込んだ、テレビの世界での原点です。
良くも悪くとも、それがあったからこそ、今、ここにおれがあることに感謝!

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